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THINK PIECE

Mr Freedom:
Tommy Roberts - British Design Hero

ブリティッシュ・デザイン・ヒーロー、トミー・ロバーツ。

12 10/15 UP

text: Andrew Bunney translation: Mayumi Horiguchi

 

A
「その百貨店にはどれぐらいの数の従業員がいたのですか?」
P
「店には約10人のスタッフがいた。階上はデザイン・スタジオだったんだ。素晴らしい作品を創り出していた時期の主任グラフィック・デザイナーはジョージ・ハーディー(*20)だった。彼らは写真撮影に起用されることになるような、支柱となる人物ですらあった。トミーは、翼をはためかせる巨大な機械のハエを持っていたな。映画のセットで使っていたものを購入したんだけど、それを天井からぶら下げていたよ」
A
「『ミスター・フリーダム』では、他にはどんなものを買う事ができたんですか?」
P
「実質的には、ほとんどすべてのものが買えたと言っていい。下着、キッズウェア、いろんな種類のニットウェア、スーツ、デイヴィッド・ホックニーが着用していたラウド・チェック・スーツ、そしてもちろん、食べ物もね。地下にはレストラン『Mr Feed’Em』があったんだから」
A
「どんな種類の食べ物?』
P
「伝統的なイングリッシュ・ソーセージとマッシュポテトなんかだね。でも、ソーセージは青に染められていて、マッシュポテトは緑色だった。給仕されるすべてのスープの中には、プラスチック製のハエが入っていた。かなりユーモラスな感じで、短期間の営業を経て閉店したよ。レストランの営業期間はほんの5、6か月だったし、このビル自体もほんの二年で閉鎖されたんだ」
A
「『ミスター・フリーダム』のスピリットを特徴づけるとしたら?」
P
「トミーと同席して、彼を見つめてみると、何か積極的なことが起こっているのが分かる。彼はいつでも、人々をプッシュし続けているんだ。こういう靴を履く勇気はあるか?この場所に入ってくる勇気があるか?みたいにね。とても祝祭的な作りなんだけど、中に化粧室は無い。だって、抑制する必要なんて全然ないんだからね。英国的な厳格さに対するすさまじいアンチなんだ。70年代のはじめにはそういう禁欲生活は広く行き渡っていて、英国は未だ、とても灰色な国だったのさ。エルトン・ジョンは、すばらしく完成された典型的なサンプルといえる。彼はシンガーソングライターだが、ファースト・アルバムのジャケット写真を見ると、音楽出版会社のために曲を書いている人物のように見える。でも、実際にジャケットに掲載されている人物写真は、過去の彼自身の姿なんだ。そんなにあか抜けなかったエルトンだが、『ミスター・フリーダム』に足を運び、その結果70年代のリベラーチェ(*注21)として、新たに頭角を現わすことになったというわけだ。ウィングドブーツや、ジム・オコナー作の真っ赤なジャンプスーツを着込んだエルトンの写真がいっぱいあるよ。その後、エルトンは『ミスター・フリーダム』に衣装制作を依頼するようになった。エルトン・ジョンの人気がアメリカで高まるにつれ、そのルックも切り離せないものとして強く結びついていたが、その衣装の出どころは『ミスター・フリーダム』だったんだ」

 

A
「そして、トレヴァー・マイルズ?」
P
「そう、トレヴァー・マイルズはこれにより圧倒されてしまい、キングス・ロード430番地へと姿を消し、『パラダイス・ガレージ』を旗揚げする。扱っていたのはアメリカ製の品々で、フェーデッドジーンズ(=淡く色あせたジーンズ)を初めて販売した店がここさ。信じられないほどの低価格で商品を購入して、イギリスに輸入していたんだけど、その当時、キングス・ロードでフェーデッドジーンズを買い求める人々がけっこういたんだ。その一方でトミー・ロバーツは、新しいフェーズに入った。オックスフォード・ストリートにあるピーターロビンソンデパート内での営業権を、初めて手に入れたんだ。ウールワースに相談を持ち掛け、店員がビロード製のホットパンツを着用している全系列下の直売店における『ミスター・フリーダム』の販売許可を提言した。その時にはもう、確実に識別可能なミスター・フリーダム・ルックというものが存在していたんだ。71年、イヴ・サンローランはアップリケを採用していたが、スージー・メンケス(*注22)を含むほんの少数の人々のみが、サンローランは基本的に『ミスター・フリーダム』とチャネリングしていると語っていた。トミーが初めから国際的な存在感を放っていたことがわかるだろう。小さな店舗を運営していた頃から、その次のデパートの話の頃にもね。実際にとても高い評判を得たし、後には大衆受けすることにもなったんだ」
A
「そういったプロジェクトがすべて短命に終わったのはなぜ?」
P
「トミーが関心を寄せていたことは、どちらかといえばアイデアと効果についてであって、道を切り開くということに興味を持っていたんだ。だから、『ミスター・フリーダム』閉店の頃には、彼が依頼していたデザインの未来は、完全に暗雲が立ちこめるものになっていた。『ミスター・フリーダム』が閉店したのは1972年の3月の終わりで、その同日(3月24日)、スペインのファッションデザイナー、クリストバル・ バレンシアガが死去した。夕刊紙『イブニング・スタンダード』は黒い縁取りのアイテムを掲載し、店とバレンシアガの消滅に哀悼の意を表したんだ。このことはその当時のファッションに関する話として、両者は等しく重要だったということを示している。『ミスター・フリーダム』が3月に閉店し、1972年の11月に、彼はコヴェント・ガーデンにて初の小売ファッションビジネスを始めた。青物市場の一画、ショーツ・ガーデンズ54番地にあるビルの最上階で、名称は『シティ・ライツ・ストゥディオ(City Lights Studio)』だ」
A
「その当時、コヴェント・ガーデンには他にどんなものがあったのですか?」
P
「青物市場と、他に2人の重要人物がいた。市場はコヴェント・ガーデン・ピアッツアにあったが、近隣の道ならどこにでも卸売業者がいた。このエリアには、果物の卸売業者がいっぱいいたんだ。1972年の頃にトミーはマルコム・マクラーレンと知り合いかなり親しくしていて、マルコムとヴィヴィアンは背後で『パラダイス・ガレージ』に参加していた。マルコムは、『シティ・ライツ・ストゥディオ』をとても好んでいたよ。とてもアンチ・ポップだったからさ。ショーペンハウアーの名言がサウンド・システムにより流され、服はすべてとても抑制された作りになっていた。きちんと仕立てられたスリーピースのスーツさ。楽しくてポップなものに仕上げずに、ほんの少し不安定なものになっていた」
A
「なぜシティ・ライツという名前に?」
P
「チャーリー・チャップリンの映画からとったんだ。彼はそれをスタジオ、つまりアトリエと見なした。訪れる人は、2つ階段を上がらなければならなかったし、床ははぎ取られた材木から出来ていて、その上、金と銀の粉末がまき散らされていた。かなり強烈に分厚くニスが塗られていたので、その上を歩く時には床は自然光によって輝き、ちらちらと光ったもんさ。棚は黒い金属柱で作ったもので、テーブル類の四つ角すべてにはスカルがあしらってあった。30年代や40年代の夢や経験といったものを感じさせたね。トミーの手腕は、またしても見事だった。時流に合わせて計画を立て、それに相応しい人々に向けて商品を紹介していた。ヨーク(切り替え布)部分に縫い込まれているラペル付きのジャケットや、すでに広げてある赤い裏地が見えるようになっているスマイルポケットといったものさ。影響力のある人々が数多く訪れていたよ。デヴィッド・ボウイやアンジー・ボウイは常連客だったね。でも当然ながら、常連になるなんてすごく特異なことだった」

 

*注20:ジョージ・ハーディー……イギリスのイラストレーター:グラフィック・デザイナー。68年に結成されたイギリスのデザイン・グループ、ヒプノシス (Hipgnosis) からの依頼を受けて手掛けた、レッド・ツェッペリン等の伝説的なロック・アルバムのカバーアートが特に有名。

*注21:リベラーチェ……アメリカのピアニスト、エンターテイナー。派手なコスチュームプレイで大衆の人気を博し、「世界が恋したピアニスト」と呼ばれた。

*注22:スージー・メンケス……『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(International Herald Tribune)』紙の名物記者。イギリス出身で、現在はパリ在住。世界有数のファンションエディター。ジャーナリズムへの功労が認められ、イギリスからは大英帝国勲章(Order of the British Empire)、フランスからはレジオンドヌール勲位(Legion d'Honneur)が贈られている。