1980年代のアメリカ美術界は、ニューヨークを中心に、新しい時代の到来を予感させる変動期を迎えていた。70~80年代前半にかけて、かって国内の美術館が掌握していた芸術の発展・市場における役割を、徐々にギャラリーが担うようになり、1960年代に生まれた美術と音楽の繋がりが、かってないほど強固なものとなっていた。当時、ある種の社交場となっていたのが“ナイトクラブ”であり、ありとあらゆる層が顔合わせできるスポットとして急速に発展していった。すべての壁を取り払った人物は、アート界のカリスマ、アンディ ウォーホルである。いくつかの有名なクラブの中で、もっとも刺激的だったのが、チャイナタウンにあった“マッドクラブ”であった。様々なカルチャーが混在するカッティングエッジーな空間であったためか、他ではありえないファッションと音楽が存在していた。だが同時に、常に危険が隣り合わせていたという。いわゆるディスコとは一線を画す場所として支持を受け、有名無名問わず、夜な夜な多くの人々が集い、若くバイタリティに溢れた、ニコラス タイラーとジャン=ミッシェル・バスキアという、2つの才能の出会いの場でもあった。 |
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「私は1977年に写真家になるためにニューヨークにやって来て、結果的には音楽プロデュサーになりました。若い頃は、究極の写真を撮りたいと熱望していて、いつもカメラを持ち歩いていましたね。バスキアとは1979年1月にマッドクラブで知り合いました。この夜に、私は今後の人生を変える貴重な映像を収めることになったのです。危険だと知りながらもMinoxを持っていく勇気があったことを幸せに思います」。現存するバスキアのポートレイトや自画像の大半は、他者を寄せつけないほどの、圧倒的な存在感と緊張感を映しながらも、内には、不安や孤独感などが含まれ、深い闇を潜めている。だが、タイラーが捉えた肖像は、それらと対照的で、みずみずしく未来への希望に満ちた表情を浮かべている。これらは、表面的に人物を撮っただけの写真ではなく、写真家の内面や感性をもが被写体として写し出され、切り取った瞬間さえも味方にしている。直観力と時代背景が重なった、ヴィジュアルエナジーに溢れた作品だといえよう。これを機会に2人の交遊がはじまり、この後ヴィンセント ギャロら数名と、伝説のアーティカルバンド“GRAY”として行動を共にした。 |
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「この名はバスキアによって名付けられたものです。私達はとてもアンダーグランドな存在で、いつもショーには有名人が来ていましたが、いくつかのクラブは薄汚く、ストリートカルチャーとドラッグの危険性が漂っていました。基本的にメンバーは楽器の演奏ができなかったのですが、無知であることをプラスに捉え、楽器を無邪気な音を出す機械としてアプローチしていました。サウンドはとても斬新で、内なる足掻きが表現されていたため、それがビッグになるのを妨げていたのでしょう。インタヴュー誌のグレン オブライエンには、地上最高のバンドと称されました。私はバンドと自分達の成長に思い出があり、ファンを全人類でもっとも素晴らしい友人のように思っていました。私自身は伝達のための媒体として機能していたのだと振り返れます」。GRAYはわずか数年で解散した。その後、バスキアはペインティングに、タイラーは音楽に、それぞれの情熱を費やしていった。DJ highpriestとしても知られるニコラス タイラーは、マイケル ホルマンらとヒップポップを、ブロンクスからロウワーマンハッタンへ持ってきた人物のひとりでもある。アフリカン バンバータのズールー ネイションとツアーに出て、グランド マスター フラッシュにチャンスを与えたりと、シーンの基盤作りに尽力した。この他にも、脚本家で映画監督のジュリアン シュナベルの依頼で、映画『バスキア』のために、ウィリアム バロウズ、ジェフリー ライトとコラボレートし、スーサイド ホットラインモードのボイスオーバーを再演するなど、数々のミュージシャン、レコードレーベル、テレビ・ラジオ番組との仕事を精力的にこなしてきた。現在では、自身のレーベルCHARM NYC RECORDSの設立も果たし、その創作意欲は尽きることはない。70年代後半から、アートと音楽の世界におけるターニングポイントを駆け抜けてきた氏は、なにを思い、どのようにして創作と向き合ってきたのだろうか。 |
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