06 5/26 UP
なんて映画だ! とにかくすべてにおいて過剰。こんなに情報量多く熱量高く、最後の一秒まで作者のエナジーがぎっしり詰った作品は稀ではないか。ほとんどミュージカルといってもいい異化的表現の嵐。アニメーション合成をはじめとする隙間のない映像処理と無数のギミックで埋め尽くされているのに、なぜか正統派古典の香りさえ漂わせて観客を滂沱させるのだ。
こんな二律背反な物言いになるのは「目に訴える表現」と「語られるストーリー」との、あまりにもあまりな乖離のせい。正直、物語だけ採ってみると、主人公・松子の一生には何の新しさもないのだ。淪落した女教師が生活力も社会性もない男たちに惚れて捨てられ無茶苦茶にされ、身を売り人を殺し揚げ句の果ては野垂れ死ぬ……まさしく幾百年繰り返されてきた三面記事的事件の連続。しかし中島哲也はそれだからこそ、いま映画にするべき理由を見つけたのではないか?
ここには、「物語なんて映画にとってそれほど重要なものだろうか?」という挑発的なまでの問いかけがある。語り尽くされた物語をわざわざ採り上げることで、中島哲也はそこからいかに独自の表現が展開できるか試しているのだ。それは“新しいものなど何もない”という地点から新しいものを始めなければならないという、いわばポスト・モダン的宿命に正面から向きあう作家の意思表明といっていいだろう。
Text:Milkman Saito